ビモータ(Bimota)の歴史を振り返る ー孤高のモーターサイクルメーカーの誕生から現在まで

公開日2022.03.25

独自の美学を貫くイタリアのプレミアムブランド、ビモータが生み出すモーターサイクルはとびきり贅沢な逸品として知られています。2019年には、カワサキモータースとタッグを組み再出発を果たしました。エンスージアスト(熱心なバイクファン)なら一度は夢見る憧れのモーターサイクルはどのように誕生し、進化してきたのでしょうか。アドリア海沿いの美しい町が生んだビモータ。その物語をたどってみましょう。

Bimota(ビモータ)の誕生と伝説の始まり

イタリアはフィレンツェから東へ約150km、アドリア海に面した港町リミニ。エメラルドグリーンの水面に青い空、そして古代ローマ時代からの歴史的建造物が日々の生活に溶け込むその場所でビモータは誕生しました。

1966年、このリミニの町に空調用配管の製作会社が立ち上がります。創業者はヴァレリオ・ビアンキ(Valerio BIanchi)、ジュゼッペ・モッリ(Giuseppe MOrri)、マッシモ・タンブリーニ(Massimo TAmburini)という3人の青年。友人同士で立ち上げた新会社は、彼らの姓から2文字ずつを拝借し、BIMOTAと命名されました。

モータースポーツの盛んな地方で生まれ育ったタンブリーニは、生粋のモーターサイクリストでした。ピアジオの修理工場を経てビモータを設立した後も、ひたすらサーキットで愛車を走らせることに熱中していたタンブリーニでしたが、1972年に大事故に見舞われます。会社の行く末を案ずる周囲はレースから撤退するようタンブリーニに懇願。それでも彼のモーターサイクルに対する情熱が冷めることはなく、走り手から作り手へと転身することを決意します。

「情熱」を原動力にスタートした美しいオリジナルフレーム作り

1973年、タンブリーニはピアジオ時代に得た学び、レース活動で培った知見、そして空調設備製作で磨いたパイプ加工技術を生かしてオリジナルフレーム作りを開始しました。芸術的感性を重んじるイタリアのクラフトマンシップが反映された美しいフレームは、軽量構造で剛性に優れ、かつ低重心を実現するなど機能面でも一頭地を抜く出来栄え。ホンダCB750のエンジンを搭載した「HB1」レーサーを皮切りに、数々のGPレースで彼らのフレームを使ったマシンが活躍し、「ビモータ=フレーム」のイメージはサーキットから瞬く間に浸透していきました。1975年にはビモータ初の市販車として、ホンダCB750フォアエンジンを搭載した「HB1」用キットを10セット生産し、レースだけでなく、世界中でその名声を拡げていくことになります。

マッシモ・タンブリーニのモーターサイクルにかける情熱が、ビモータの原点。当初は本業であった空調設備機器製造とは別の部門として“ビモータ メカニカ”を立ち上げてモーターサイクル用パーツの製作を行っていた。写真は1970年代のBimotaの設計および製作現場の様子

カワサキのZ1パワーを積んだビモータが誕生

以降ビモータは、独自のフレームに日本メーカー4社(カワサキ、スズキ、ホンダ、ヤマハ)のエンジンを搭載していきます。

1977年には「HB1」に続く市販車2作目として、スズキGS750エンジンを積んだ「SB2」が登場。スイングアームピボットとドライブスプロケット軸を同軸上に配置するというユニークな構造とともに、モジュール形式と呼ばれる分割型フレームを採用するなど、タンブリーニの独創性が存分に生かされたマシンとなっていました。斬新なアイデアを注入した「SB2」はスズキGS750の2倍以上の値段だったにもかかわらず、キット、完成車合わせて140台分を生産したビモータ初の成功モデルとなりました。生産需要に対応するべく、工場の従業員が10人から30人に増員されることにもなったのです。※1

1977年11月のミラノショーでは、カワサキZ900のエンジンを搭載した「KB1」が披露されました。追ってZ1000エンジンも追加して市販された「KB1」は先行の「SB1」を上回るプライスタグを掲げたものの、1978〜1982年という4年の生産期間中に827台(キット、完成車合計)が製造されるビッグセラーに。※2 複雑に入り組んだ高剛性の多鋼管トラス構造フレームにZ1パワーを詰め込んだ「KB1」を皮切りに、1981年には「KB2」、そして1983年には「KB3」と、タンブリーニ時代には3種類のカワサキ×ビモータモデルが登場しました。

※1 Mike Seate著『Suzuki GSX-R』 Motorbooks International刊

※2 『Fast Bikes Magazine』 November issue, 2011, Mortons Media Group刊

フェデリコ・マルティーニの移籍と代表作「DB1」の誕生

ビモータの歴史は、常に鬼才エンジニアの存在とともに紡がれてきました。

1983年3月、経営面担当のモッリとの意見の相違によりタンブリーニが去ると会社の推進力は一気に低下。経営が悪化したビモータの救世主としてドゥカティからやってきたのが、新たなテクニカルディレクターであるフェデリコ・マルティーニでした。

マルティーニはタンブリーニの多鋼管トラスフレームを受け継ぎつつも、自身の個性を採り入れた新フレームデザインを構築。1985年には、自慢の美しいフレームワークをあえてフルカバードカウルで囲うという斬新なデザインを採用し、古巣ドゥカティのコンパクトな750F1エンジンを組み合わせた「DB1」を発表します。その機能美と独自性、そして高いハンドリングが評価され、「DB1」はシリーズ累計700台超を生産するというビモータの代表作となりました。

さらにビモータ初のアルミニウム製ツインスパーフレームを採用した「YB4」など、独自のスタイルを表現した傑作モデルを輩出。1983〜1989年という短い在籍期間の中で、マルティーニは大きな成功の足跡を残します。

フェデリコ・マルティーニ(左)とジュゼッペ・モッリ(右) (1985年撮影)

名設計者ピエルルイジ・マルコーニが伝説の「TESI 1D」を発表

ビモータの第3章ともいえる時代を築いたのが、1989年にテクニカルディレクターの職を受け継いだピエルルイジ・マルコーニです。

「いつかこの手でモーターサイクルを作りたい」 そう願い続けてきたマルコーニは、大学生の時にビモータの門戸を叩きます。学生時代の彼が友人のロベルト・ウゴリーニと共に作成したハブセンターステアリングの論文(=イタリア語でTESI)こそが、後に世界へ衝撃を与える作品「TESI 1D」へとつながりました。テレスコピック式フロントフォークを用いず、車体中央から前後に伸びたスイングアームの先端でそれぞれの車軸を支持するというコンセプトをマルコーニがまとめたのは1982年のこと。それから7年の時を経て、ホンダやヤマハのエンジンを搭載したいくつかのプロトタイプによる試作を積み重ねながら、1990年に「TESI 1D」として世に送り出された独創的なマシンは、モーターサイクル界に新たな時代の到来をつげました。

その後もマルコーニはビモータ最大のヒット作となる「SB6」を手掛ける一方、従来の人気モデルであるDBシリーズおよびYBシリーズのアップデートを敢行。さらに、アルミ楕円管によるトラスフレームを用いた「DB3 マントラ」やBMWのシングルシリンダーを採用した「スーパーモノ」といった個性的なモデルを積極的に開発し、モデルレンジを拡大していきます。

1993年には、500V2を搭載したTESIがイタリアでのチャンピオンシップレースにも出場し、1997年にはエンジンを含めて全てを“オールビモータ設計”とした夢のマシン「500 Vドゥエ」がついに完成。しかし、直噴2ストロークという意欲的な自社製Vツインは大きな話題を呼んだものの、画期的なシステムであるだけに大量生産・安定供給の体制を整えるのは至難の業でした。

2000年、ビモータの伝説は一度幕を下ろすこととなります。

1989年にテクニカル・ディレクターになったピエルルイジ・マルコーニが設計した伝説の1台、「TESI 1D」。ちなみに「TESI」はイタリア語で“論文”の意味。学生時代にマルコーニが書いたハブセンターステアリングの論文に由来する
ピエルルイジ・マルコーニ設計による「SB6」(1994〜1996年)。スズキGSX-R1100エンジンにダイレクトピボットフレームを組み合わせたマシンは、ビモータ最大のヒットを記録した
“公道を走るGPマシン”として華々しく登場した「500Vドゥエ」

栄枯盛衰の時を経て、ビモータは21世紀の新章へ

それでも、モーターサイクルの至宝とも呼ばれたビモータが“大いなる眠り”につくことはありませんでした。

2000年代にはセルジオ・ロビアーノをチーフデザイナーに据えて「DB5」をリリースするなど復活の機運を覗かせます。そして、幾度かのオーナー交代を経ながら本格復帰の日を待ち続けたビモータは、いよいよ2019年、新章に向けての一歩を踏み出しました。カワサキモータースとタッグを組み再出発を果たした新生ビモータには、なんと伝説の設計者であるピエルルイジ・マルコーニも復帰。

そして今、「TESI H2」、「KB4」というニューモデルを旗頭に、新しい伝説を築き上げようとしています。

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