モビリティ(Mobility)は、本来「(体の)動きやすさ、機動性」や「(社会などの)流動性、移動性」を意味する英単語。転じ て、交通領域では「人やもの、ことを空間的に移動させる能力、あるいは機構」を指すようになりました。
帆船から貨物船へ、馬車から自動車へ、蒸気機関車から電車へ。私たち人類が初めて山を越え、海を渡った太古の昔から、モビリティはいつも人間社会と共にありました。人々は知恵を寄せ合い工夫を重ねテクノロジーを磨きながら、より優れたモビリティ(移動手段)を生み出し続けてきたのですーーヒトやモノ、コトをもっと遠くへ、ずっと速く、さらに快適に、より確実に移動させるために。
そして2021年。高度情報通信社会の到来、グローバライゼーションの拡大、地球環境問題の深刻化、そしてコロナ禍がもたらした非接触型の新しい生活様式など、社会は大きな変革期を迎えています。では、その新しい社会でモビリティはどんな風に進化していくのでしょうか。モビリティの可能性を探るべく、過去から今、未来まで、川崎重工のモビリティに乗って一緒に時空旅行へ出発しましょう。
カワサキモビリティの原点は船
舟は人類にとって最古のモビリティの一種。紀元前5000年頃のエジプトにはすでにパピルスを束ねた舟があったと言われ、木材を何本も結んだいかだ状のものや、丸太をくりぬいたカヌー状のもの、竹で編んだ籠状のものなど、様々な舟が古来から地球上に点在する陸と島、人と人を繋いできました。
ところで、川崎重工にとっても船は原点ともいえるモビリティです。創業者の川崎正蔵は17歳で長崎の貿易商で修業を積んだのちに、海運業や蒸汽船会社でのキャリアを通じて“船”に強い関心を抱きます。そして1878年(明治11年)、東京・築地に川崎築地造船所を開設したのが全ての始まりでした。
船の材質が鉄から鋼へと遷移していた折、川崎正蔵はその機を逃さず「日本最初の鋼船」を竣工(1890年[明治23年])するなど、10年間で80隻の船を新造。1902年(明治35年)には、神戸港における最初の本格的な乾ドック(海から陸へ掘り込んだ一種の堀割で、船を入れたあと水門を閉めてポンプで排水し、船舶の修繕あるいは建造を行う)を築造しています。
その後も、戦後最大級の大型タンカーをはじめ、LNG(液化天然ガス)運搬船、潜水調査船、自動車専用運搬船、小型水中作業船、深海救難艇といった“国産初”を続々と送り出してきた川崎重工。川崎の造船の歴史は、そのまま日本の近代造船の歴史とも言えるのです。
マイナス253℃の水素を「ためて」「はこぶ」技術
そんな川崎重工が、次の時代を見据えて開発したのが“世界初”の液化水素運搬船「すいそ ふろんてぃあ」です。2019年12月に進水式を行った本船は、温室効果ガスの削減・再生可能エネルギーの有効活用などのカギとなる水素を、安全かつ大量に長距離海上輸送するために生まれました。
水素は、マイナス253℃の極低温にすることで気体から液体に変わり、体積が800分の1に減少します。そうして運搬の効率を飛躍的に高め、より多くの水素の流通を可能にするべく作られたのが「すいそ ふろんてぃあ」。その実現には、川崎重工が誇る2つのテクノロジーが大きく寄与しています。
ひとつは、創業以来培ってきた造船技術。そしてもうひとつが、極低温の水素を安全に貯蔵することができるタンクの製造技術です。1981年に日本初のLNG運搬船を建造した川崎重工は、極低温物質を取り扱うノウハウを蓄積。日本初となるLNG運搬船の建造、JAXA種子島宇宙センターのロケット射点設備に設置された液化水素貯蔵タンクや、液化水素輸送コンテナの開発を通して、マイナス253℃という極低温の液化水素を輸送・貯蔵する技術を磨き上げてきました。
全長116m×全幅19m×深さ10.6mの「すいそ ふろんてぃあ」は1,250m3の「液体の水素」を積載可能。例えば、約5.6 kgの水素を貯蔵できるタンクを積む燃料電池自動車(FCEV)トヨタMIRAIに換算すると、およそ13,400台を「満タン」にできる水素を運ぶことができるのです。目指しているのは、国際的な水素サプライチェーンの構築。「すいそ ふろんてぃあ」が本格始動した暁には、オーストラリア・ビクトリア州の未利用資源、褐炭から製造した水素を、16日間かけて9,000kmの距離を日本へ海上輸送する役割を担うことになります。
0系新幹線からNYの地下鉄まで
大量輸送・定時性・高速性・安全性・省エネ性といった利点をもつ鉄道の進化は、社会の活性化に直結します。その可能性に着眼した川崎重工は、明治30年代の最初期から国産蒸気機関車製造に着手。新性能電車時代以降も、“ロマンスカー”としてお馴染みの小田急3000形電車(1957年)や、「ビジネス特急こだま」(1958年)といった鉄道の歴史に残る名車両を手掛けてきました。
ところで、世界に誇れる日本発の長距離都市間高速輸送機関といえば新幹線です。川崎重工は航空宇宙部門がもつ流体力学などの技術を活かし、その開発・設計に黎明期から携わってきました。「0系新幹線」(1964年)をはじめ、初めて270km走行を実現し東京-新大阪間を2時間30分で結んだのぞみ用車両の300系試作電車(1990年)、新幹線で初めて全2階建て車両を採用したE1系“Max”(1994年)、山陽新幹線500系(1996年)、東海道新幹線700系(1997年)といった歴代モデルを製造。2000年代以降に登場したN700系やE6系、E7系・W7系などの現役車両はもちろん、2016年に開業し大きな話題を集めた北海道新幹線、H5系の第1編成を手掛けたのも川崎重工です。
川崎重工製の電車は海外でも広く活躍しています。例えば米ニューヨーク市の生命線ともいわれる地下鉄網にも、1982年以来多くの車両を納入。現在までに2,200両を超える地下鉄電車を提供してきました。安全性と信頼性に優れたカワサキ製メトロ車両は、24時間人々の移動を支え続けるインフラとして愛されています。
貨車や機関車、モノレール、新交通システムに至るまで、川崎重工の作る鉄道車両は多岐にわたります。さらに、車両だけでなく、振動や車体傾斜を制御するシステムなど、安全で快適な交通システム全体に貢献する技術も開発してきました。世界の輸送・交通を支える縁の下の力持ちとして、川崎重工の鉄道技術は今日も進化を続けているのです。
世界を熱狂させるライムグリーンのモーターサイクル
「Kawasakiといえばモーターサイクル」。そうイメージする方は少なくないでしょう。鮮やかなライムグリーン色のモーターサイクルをパッと思い浮かべる方も多いはず。とりわけ大排気量モデルの人気は凄まじく、マッハ、Z1、Ninja、ZZR、Zephyrといった名車の数々は今も中古車市場で根強い人気を集めています。
Kawasaki=大型のモーターサイクルというイメージの礎を築いた原点は、1965年に登場した650W1。当時、「国内2輪モデルで最大排気量」を標榜した本格スポーツモデルは、日本のみならず、世界一のマーケットであったアメリカでも人気を獲得。同時期に輸出が始まった“サムライ”250A1、そして、やや遅れて登場したマッハシリーズがその勢いを後押しし、かの地で一大カワサキブームを巻き起こしました。
なによりKawasakiマシンの存在を世に強く知らしめたのが、モータースポーツの舞台。ある人は「伝説」といい、またある人は「神話」と語るライムグリーン軍団の戦いは、1960年代にスタート。1969年のA1RASとA7RSのデイトナ200マイル参戦に始まり、1970年代にはアメリカのAMAロードレース選手権をH2Rが、そしてロードレースの最高峰・WGP(ロードレース世界選手権)をKR250/350が席巻。「最速」の称号を賭けて世界を相手に名勝負を繰り広げてきたカワサキレーサーは、いつしか“グリーンモンスター”の異名を取るようになりました。1980年代初頭は世界耐久選手権がKR1000の独壇場と化し、1990〜2000年代はNinjaが勃興。今も多くのタイトルや表彰台をライダーにもたらし続けているのです。
Kawasakiのモーターサイクルは今も進化を続けています。それを象徴するのが「Ninja H2/H2R」。川崎重工の技術の結晶ともいえるトップモデルです。H2シリーズは、現在量産2輪車唯一のスーパーチャージャー搭載モデル。2輪のエンジニアだけでなく、航空宇宙やガスタービン部門、技術開発部門が開発に関与しているのが最大の特徴です。川崎重工が誇る技術の粋を結集し、革新的な過給器や空力デバイスを搭載した「究極のロードスポーツ」を作り上げました。最高出力200馬力を誇るH2シリーズは、キング・オブ・モンスターマシンとして君臨しています。
救急医療の現場を支えるドクターヘリ
ライト兄弟が「フライヤー1号」で動力機による有人初飛行を達成したのは1903年のこと。川崎造船所(当時)が“空”に着目して兵庫工場に飛行機科を設置したのは、ライト兄弟の初飛行からわずか15年後の1918年でした。
当時英ロンドンでドイツ軍による空襲に遭遇した松方幸次郎社長が、「これからは空の時代だ」と新規事業の開拓に乗りだし、すぐさま生産体制を整えたのが始まり。1922年には川崎重工にとって初めての飛行機としてサルムソン式2A-2型偵察機の試作機を完成させ、陸軍最初の制式機「乙式1型偵察機」として採用されました。またその4年後には日本初の全金属製飛行機を完成(1926年)させ、陸軍に87式重爆撃機として採用されています。 1945年の終戦とともにGHQにより航空機の生産が禁止され、我が国の航空機産業は一旦幕を閉じましたが、1952年の再開後は防衛用途に加え、ヘリコプターやジェット旅客機の部品を製造。世界の航空機メーカーのパートナーとして、最新鋭機の開発・製造を手掛ける一方、H-IIロケット用フェアリングを始めとしたロケットや衛星関連の部品や機器も扱っています。
また、全国で活躍するドクターヘリの約半数で採用されているのが、川崎重工の「BK117」シリーズです。日本でも20年前に運用が始まったドクターヘリは、空飛ぶ救命救急として最前線の医療現場を日々支えています。なかでも「BK117」シリーズは1983年の初号機以来、改良に改良を重ね、運航性能や安全性能に磨きをかけてきた実力機。ストレッチャーを搬出入しやすい観音開きのドアや余裕のある広いキャビン、優れた機動性、万一の際にも安全な運航を維持できる双発エンジンを備えた頼もしい作りが、命をつなぐ現場を支えています。医師・機長・整備士、そして患者のために、川崎重工はさらなる安全・快適なドクターヘリの運用を目指して今日も開発力、製造力、として人材を育み続けています。
カワサキのモビリティは宇宙、そして未来へ
ヘリコプターやジェット旅客機ではたどり着けない高みにも、カワサキの技術は届いています。1993年に納入したH-IIロケット向けの衛星フェアリング(ロケット最先端部のカバー)を皮切りに、国際宇宙ステーション「きぼう」の一部機構、火星衛星探査機用の構造設計や部品製造を担当しています。
海から始まり、陸、空、そして宇宙へ。川崎重工が作る乗り物は、宇宙船地球号の健全な運航を支えるべく、今日も世界のあちこちで働いています。では、カワサキモビリティはこれからどこへ向かうのでしょうか。そのヒントが、2030年までの事業方針を示した「グループビジョン 2030」に描かれています。
これからのモビリティに求められるのは、スマートでかつ、クリーンであること。そんな次世代のモビリティ社会に向けた川崎重工の取り組みはもう始まっています。例えば“海のドローン”と言われる自律型無人潜水機(AUV)はすでに商用化を実現。さらに無人ヘリコプターや、“ラストワンマイル”を担う配送ロボットなど、得意の自動化技術を駆使して先進のモビリティの開発を進めているのです。来る水素時代を見据え、水素燃料を使った船舶用エンジンや航空機用パワートレーン開発にも力を入れています。
まだ見ぬ土地へ行きたい。早く目的地へ着きたい。快適に移動したい。もっと高く、もっと遠くへ、もっともっと速く。振り返ってみれば、乗り物の歴史は、人類の夢が実現していく歴史でした。であるならば、川崎重工が見つめる2030年の風景は、私達が“今”見ている夢の具現したカタチ。そう言えるのかもしれません。
道なき道を行く!北米で人気のカワサキ製バギー
カワサキ製のオフロードモデルは北米で根強い人気を誇っている。1人乗りATV(All Terrain Vehicle=全地形型車両)の「KFX」「BRUTE FORCE」、2〜4名が乗車できる多用途四輪車「MULE」「TERYX」を展開。日本の道交法では公道走行できないものの、「MULE」はその高い機動性と走破性を評価され、大手消防車メーカー・株式会社モリタの新型消防車のベース車両としても採用されている。
「ジェットスキー」は川崎重工の登録商標!
水上を走るオートバイ、ジェットスキーはいまやマリンスポーツの大定番。水の上を自由に動き回ることのできるまったく新しいその乗り物を、世界に先駆けて発売したのが川崎重工だった。1973年に世界初の商用機「JS400」をリリースし、アメリカを中心にパーソナルウォータークラフト(PWC)と呼ばれる新しい市場を確立。なんとなく水上オートバイ全般のことを総じてジェットスキーと呼ぶ人も少なくないが、じつは「JET SKI」「ジェットスキー」は川崎重工の登録商標である。
超高速旅客船ジェットフォイルの謎。“海を飛ぶ”ってどういう原理?
「ジェットフォイル」は、水中に沈めた翼に働く揚力を使い、船体を完全に浮かせた状態で水の抵抗をなくして高速走行する水中翼船。翼をすっかり水中に沈めてしまうため、船体が傾いても揚力が変化せず安定して航行できるのが特徴。最高速力45ノット(時速83km)というスピードを誇るが、波の影響を受けないため乗り心地はまるで飛行機のよう。波高3.5mの荒波でも安定した航走をキープする。ちなみに2020年7月には、ジェットフォイル初のバリアフリー仕様が東京竹芝から伊豆諸島航路に就航している。