フランク・ブラングィン 「松方幸次郎肖像」 1916年 松方家蔵
©David Brangwyn

フランク・ブラングィン 「共楽美術館構想俯瞰図、東京」
国立西洋美術館蔵
©David Brangwyn

言葉や文字以上に、絵画は見る人の心を揺さぶる。しかし、日本の貧しい画学生には優れた西洋画に触れられる機会がない。それならばと幸次郎は立ち上がり、決心した。富豪の一人として名を成した自分が西洋画を買い集め日本に持ち帰ろう。そしてみんなで共に楽しめる『共楽美術館』を建設しようと。

幸次郎が足を運んだ画廊のひとつ『ルフェーブル』

第一次世界大戦中、欧米各国では国民の愛国心を煽るポスターが至る所に貼られていた。それを見た幸次郎は「貧弱なポスターしかない日本は、文化の面でも欧米に遅れをとっている」と感じたという。そして、その大戦ポスターの作者フランク・ブラングィンの描いた絵の購入を始めた。当時の日本で優れたアート作品を観る手段は、数少ない雑誌しかなかった。画学生が本物の芸術に触れるには留学するしかない。しかし、貧しい学生はどうすればいいのか。こみ上げてくる熱い思いを抑え切れなくなった幸次郎は、自らの終生の仕事として、先進国の優れた西洋画を買い集めることを決意した。後に「松方コレクション」と呼ばれる、それら作品コレクションは最終的に1万点以上にも及んだとされている。

当時の時代背景

「二月革命」、「十月革命」と呼ばれる2度の革命がロシアで起きた。この十月革命によって世界初の社会主義国家が誕生し、全世界に衝撃を与えた。

「共楽美術館」の完成予想図

絵画収集を始めた幸次郎であったが、肝心の絵画を選別する審美眼は持ち合わせていないと自称している。そのため外国の美術商には、食わせものの絵を買わされたりもした。そこで信頼できるアドバイザーとして雇ったのが、奇しくも幸次郎が初めて買った絵の作者・ブラングィンであった。芸術を広めようとする信念が結び合い、深く親交を深めた二人は世界中からどんどん絵画を買い集めていった。

購入した美術品が山を成すほどになった頃、幸次郎はそれらをどのように生かすべきかを考え美術館の建設を思いつく。幸次郎からそのプランを聞かされたブラングィンは共感を示し設計を快諾した。館名は共に楽しむという意味が込められた「共楽美術館」に決まった。当初は「松方美術館」という案も出ていたが、幸次郎はそんな考えを「ケチくせえ」と一蹴したと言われている。「おいは、日本と日本人のためにやるんじゃ」そう言い放つ幸次郎の夢は、ここから動き出したのだった。

当時の時代背景

国際間の協力を目的として国際連盟が発足した。第一次世界大戦の教訓から、各国は世界平和を目指して足並みを揃えようとしていた。

モネと幸次郎

作品購入を目的として、幸次郎は印象派の巨匠クロード・モネを訪ねた。少なくとも二度は訪れ、計34枚の絵画を買ったとされているが、最終的に何度も足を運び、何点購入したのかは明らかではない。幸次郎はジヴェルニーにあるモネ宅を再訪するうちに、モネの好みを知るまでになった。会いに行く時には必ず、モネが愛飲していたナポレオンというワインを一本買っていくと、モネはまるで子どものようにはしゃいで喜んだという。モネとアトリエを見て回っているとき、幸次郎は飾られている内の18点の作品を譲ってほしいと切り出した。

それらはどれもモネ自身のお気に入りであり、コレクターには売らないと決めていた作品ばかりだった。それにも関わらず「あなたの素晴らしい絵を日本の貧しい画学生に見せたいのです」という私利私欲ではない幸次郎の想いを知ったモネは、絵画を譲ることを承諾した。

当時の時代背景

第一次世界大戦終結後、アメリカの首都ワシントンD.C.で史上初の軍縮会議が開かれた。列強諸国の海軍力増強を制限した多国間条約が締結され、各国は建造中の戦艦・巡洋戦艦全てを廃棄処分とした。

松方コレクションの流れ

1923年に発生した関東大震災は、共楽美術館の建設にも強烈な打撃を与えた。関東全域のインフラ設備が崩壊し、建設の見通しさえ立たなくなってしまったのだ。幸次郎から計画の一時中断を知らされたブラングィンもまた失望した。さらに政府は貿易赤字にも苦しんでおり、その改善策として絵画も対象となる十割にも達する贅沢品関税法が施行された。そのため、幸次郎はヨーロッパで買い集めた絵が神戸港に到着しても、それらを受け取れずに送り返したという。しかし、悲運はこれだけに留まらなかった。世界大恐慌の影響から絵画のほとんどが十五銀行に差し押さえられてしまったのだ。追い打ちをかけるように戦争によってロンドンの倉庫が焼失し、無事だった絵画も敵国財産としてフランス政府に没収されるなどした。その他、海外に保管されていた名画群も散逸したとされている。こうして、共楽美術館を建設するという幸次郎の夢は、儚くも幻となった。

当時の時代背景

日本、ドイツ、イタリアの枢軸国と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ、フランスなどの連合国との間で全世界規模の大戦が起きた。戦後の人的、物的被害は、第一次世界大戦と比べても莫大な規模だったとされる。

国立西洋美術館

1951年に開かれたサンフランシスコ講和会議の裏では、当時首相だった吉田茂によって松方コレクション返還の申し入れが行われていた。吉田は、幸次郎の思いの丈を熱く代弁するかのように伝えた。するとフランス外相はただ一言「イエス」とだけ返答したという。条件として出されたのが、絵画をこれ以上散逸させないための特別な美術館をつくることだった。そして1959年、絵画308点、彫刻63点、書籍5点にも及ぶ美術品が日本へと返還された。その後、松方コレクションの展示場所となる「国立西洋美術館」の開館式が行われた。式の挨拶の最後には、幸次郎の長女花子により、父に代わるフランス語での感謝の言葉が読み上げられた。貧しい画学生のためとして始められた絵画収集。美術館建設の夢を抱いて40年。あまりにも長い年月を経て、多くの困難にも見舞われながら、ようやく幸次郎の夢は実現したのだった。

当時の時代背景

日本とアメリカなど西側諸国による第二次世界大戦の講和会議が開かれた。この会議で締結されたサンフランシスコ平和条約により、今後の日本の主権回復が認められることになった。

川崎重工創立120周年となる2016年。残された松方コレクションの多くを有する上野にある国立西洋美術館が世界遺産に認定された。これを機に、松方コレクションへの注目度も新たに高まっている。また神戸開港150年のプレイベントとして、当社特別協賛のもと、27年ぶりに神戸で「松方コレクション展」の開催が決定した。

前回の松方コレクション展は、神戸市制100周年記念展として1989年に神戸市立博物館で開催され、約19万人の来館者を記録した。関連資料を含め約160点が出品される本特別展の見どころは、フランスに留め置かれたロートレックの名作≪庭に座る女≫、ピカソの≪読書する夫人≫、ルーブル美術館所蔵のセザンヌ、モロー、および国立西洋美術館蔵クロード・モネ≪ヴィトュイユ≫。また、当時の人気画家たちに焦点を当て、松方コレクション以外にもフランス各館から選りすぐりの名品約20点も展示される。

46 アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 「庭に座る女 ジュスティーヌ・デュール」
1891年 オルセー美術館蔵
©RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) /
Hervé Lewandowski / distributed by AMF
クロード・モネ 「ヴェトゥイユ」
1902年 国立西洋美術館蔵
カミーユ・ピサロ 「収穫」
1882年 国立西洋美術館蔵
オーギュスト・ロダン 「永遠の青春」
1881-84年 国立西洋美術館蔵
フランク・ブラングィン 「共楽美術館構想俯瞰図、東京」 国立西洋美術館蔵
©David Brangwyn
フランク・ブラングィン 「松方幸次郎肖像」
1916年 松方家蔵
©David Brangwyn
ポール・ゴーギャン 「水飼い場」
1886年 島根県立美術館蔵
カミーユ・コロー 「罪を悔ゆる女(マグダレーナ)」
個人蔵
コンスタン・トロワイヨン 「市日」
1859年頃 山梨県立美術館蔵
シャルル=フランソワ・ドービニー 「レ・サーブル・ドロンヌ」
ブリヂストン美術館蔵
ギュスターヴ・クールベ 「肌脱ぎの女」
1867年 国立西洋美術館蔵
ギュスターヴ・モロー 「ジョット」 1882年頃 ルーブル美術館素描画室蔵
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) /
Tony Querrec / distributed by AMF
レオン・レールミット 「羊飼いの女と羊のいる風景」
1909年 兵庫県公館蔵
カミーユ・ピサロ 「ルーアンの波止場」
1898年 個人蔵
ポール・セザンヌ 「田園の奏楽」模写 1878年 ルーブル美術館素描画室蔵
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) /
Tony Querrec / distributed by AMF
ジュール・バスチアン=ルパージュ 「洗濯女」
個人蔵
モーリス・ドニ「字を書く少年」
1920年 国立西洋美術館蔵
ピエール=アルベール・マルケ 「レ・サーブル・ドロンヌ」
1921年 国立西洋美術館蔵
エドヴァルド・ムンク 「雪の中の労働者たち」
1910年 個人蔵
シャイム・スーティン 「つるされた鶏」
1925年 ポンピドゥーセンター蔵
© Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand Palais /
Droits réservés / distributed by AMF
喜多川歌麿 「針仕事」
1794-1795年頃 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「針仕事」
1794-1795年頃 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「針仕事」
1794-1795年頃 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「蚊帳の内外」
1797年頃 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「刺身」
1798-1799年頃 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「青楼三美人」
1793年 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「幌蚊帳」
1794-1795年頃 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「大木の下の雨宿り」
1799-1800年頃 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「大木の下の雨宿り」
1799-1800年頃 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「大木の下の雨宿り」
1799-1800年頃 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「当世踊子揃 鷺娘」
1793-1794年頃 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「青楼仁和嘉女芸者之部 浅妻船 扇売 歌枕」
1793年 東京国立博物館蔵
喜多川歌麿 「青楼仁和嘉女芸者之部 扇売り 団扇売り 麦つき」
1793年 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「よつや十二そう」
1804-1807年 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「たかはしのふじ」
1804-1807年 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「千絵の海 蚊針流」
1832年頃 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「千絵の海 待チ網」
1832年頃 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「千絵の海 宮戸川長縄」
1832年頃 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「千絵の海 絹川はちふせ」
1832年頃 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「千絵の海 甲州火振」
1832年頃 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「麦藁細工見世物」
1820年 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「麦藁細工見世物」
1820年 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「麦藁細工見世物」
1820年 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「麦藁細工見世物」
1820年 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「略十二段図」
1799年 東京国立博物館蔵
葛飾北斎 「絵馬堂の茶屋」
1801-1805年 東京国立博物館蔵